8月 31

月9はいわゆる読売巨人軍と同じで
大物の俳優を出して間違いない成績を出すのが使命だ。

が、

前回の婚カツ、今回のブザービート

すこっっっっっしも面白くない。

婚カツは中居正広の主人公のキャラが弱いうえに
コメディ的な部分を出したいのか
流行性を出したいのか
恋愛模様を出したいのか
シリアス路線なのか
すべてにおいて中途半端。

演出やキャラ作り、脚本、展開も目新しいものではない。

まぁ結果視聴率もヤバい結果に終わって、
さぁ次で名誉挽回だ…と思わせながら

最悪。

これまた2時間サスペンスより先の展開の分かる内容。
ベターな恋愛模様。

見る度

はぁ?なにその展開ありがちっ!」の連続。

ベタに出てくるキャラが八方美人の上
ふらふらしてる感じが20年前のドラマよりも面白くない。

食事の関係上見なければいけない状況で
見ていて胸くそが悪くなるほど。

リアリティの欠片も無い。

誰かが「ドラマだから」とかいうけど
逆でしょ?
ドラマだからこそ、
その時点で嘘の話、
空想の話なんだから(ノンフィクションのドラマなら違うが)
随所にリアリティを入れないと
嘘そのものになり

少しも面白くなくなる。

いつか面白い月9は帰ってくるのだろうか?
もう”月9は面白い”の神話などとっくの昔に崩れ去り。

むしろ”月9”というのは”面白くない”イコールになりつつあるのでは?
良い俳優、旬の女優を出した所で
面白くない脚本、演出ではどうしようもないのだから。

面白い、素晴らしいものを作ってほしい。
シンプルにそれだけ。

以上


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8月 31

スタジオジブリは、みんな知っているだろう。

ピクサー、ディズニー、アードマンなどの海外の
アニメーションスタジオや日本のプロダクションI.Gなど
世界的に有名なスタジオはあるが
その中でも

スタジオジブリは群を抜いて一番好きである。

自分は軽いマニアの領域かもしれないぐらい好きだ。

今後ジブリのアニメ映画を一つずつご紹介していくつもりです。

なのでその前に全体の概要として”スタジオジブリ”のことを
綴ります。

宮崎駿、高畑勲の映画作品がほとんどを占める。

正式な第1作は「天空の城ラピュタ」だ。
「風の谷のナウシカ」はジブリ設立前だ。

高畑勲のジブリとしての1作目は「火垂るの墓」。

音楽は主に久石譲が作り出している。

海外においての評価も非常に高い
しかしその評価に至るのにはかなりの時間を要した。

例えばピクサーのジョン・ラセター(海外アニメの最重要人物の一人)も
宮崎アニメの大ファンであり、宮崎駿とも非常に深い交流がある。

代表作はすべてといっていいほどだ。

このアニメーションスタジオ、宮崎駿のすごさは
「もののけ姫ができるまで」やテレビ放映されたドキュメント等で
垣間みれる。

スタジオジブリの作品はもはや”アニメ”の領域ではなく
“動く芸術”だ。

三鷹の森ジブリ美術館で
さらに芸術性を体現したといえる

本当に尋常ではないのだ。

“宮崎駿”という人間は

研ぎすまされた感性、
芸術性、
スキル、
物の考え方、
知識、
持論、

なにからなにまですごい。

もちろん高畑勲もすごい。

だが宮崎駿という人間はそのさらに上をゆく。

現在生きている日本人の最重要人物だと思う。
イチローやオノ・ヨーコもすごいとは思うが
やっぱり一番すごい。

しかし不安な部分がある。

後継者問題だ。

宮崎駿
高畑勲
どちらも高齢だ。

あと何作残せるか..
跡継ぎとなる人間がいないのだ。

いや、いたのだ

新潟、五泉市出身の
近藤喜文だ。

だが近藤喜文は亡くなってしまった。

近藤喜文については近い内に記事にします。

ジブリは今後発展するのか
それとも崩壊するのか
それはわからない。

しかしなんとしても
未来に宮崎アニメのような
クオリティの非常に高いアニメを
残してほしい。

他のスタジオでもいい。
なんとしても

未来の子供達の為に残ってほしい。

それが私の未来への思いと願いだ。

以上


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8月 31

たまには難しく真面目な記事を書いてみる事にする。

死後の世界がもしあるとして、
よく語られる話として
まず人間が死ぬと魂が三途の河原にいって向こう(あの世)にいく。

すると天国か地獄に行って過ごした後
輪廻の概念でいけばまたその魂は現世で生まれ変わるというものだ。

この前「もののけ姫が生まれるまで」を見返してたら
宮崎駿さんがこの死後の世界について語ってるシーンがあり、
自分の存在が消えるのは
魂が三途の川を渡って自我がなくなれば魂とは無関係に個がなくなる
つまり魂が残って何度も輪廻しようがしまいが、自我、”個”がなくなれば
その時点でその人の存在は無になったのと同じだと言っていた(自分なりに解釈していますが)

人それぞれ死生観はあるとは思いますが私も輪廻というものは、
もしあると仮定しても”個”が継承されないのであればそれはなんの意味もなさないであろうと思う。

そのうちこの”輪廻”がテーマの漫画
「火の鳥」
についても考察を書いてみようと思うが
また今度。

みなさんはどうだろうか?

そこで少し話が変わるが「テセウスの船」をご存知だろうか?
パラドックスの一種である。
物体(オブジェクト)の全ての構成要素(部品)が置き換えられたとき、基本的に同じであると言えるのか、という問題

例えば、

「あるAという船がある。その船は長い年月のうちに部品がすべて置き換わった。そうしたらそのAという船は、Aといえるのか?」

という事。
身近な例ではモー娘。みたいな事
(初期メンバーが一人もいないのにそれをモー娘。と呼ぶ)

これも人によってまちまちな回答になりそうだが

私は”別のモノ”
であると思う。

なんでこんな話を持ち出したかというと上記の死後の魂と”個”の概念に通ずるものがあるなぁと感じたからだ。

体と自我がなくなれば、魂が同じで他の体で生まれ変わっても同じといえるかどうかという点で

自分としてはそれはもはや別の物であり
輪廻は輪廻であっても本当の意味での輪廻ではない。
と思っている。

だからスピリチュアルとかで
「貴方の前世は~です」
的な事を言ってるがそれはもはや違うものであるから前世を知った所で
他人を紹介されたのと同じだと思う。

うーん
なんか哲学的になってしまったか?

でもなんとなくどうでもいいことかも知れないけど
“死”というテーマは人間なら誰しも関係のあることなので
意外に重要な事だと思う。

あなたの死生観はどんなですか?

以上


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